わたしも、年をとるにつれて、よく泣きよく笑うようになった。人類もたぶん同様だ。泣きと笑いのバランスについても是正が進行し、「泣かせるのは簡単。笑わせるのは難しい」という格言も、日本においてはすでに時代遅れなものとなった感がある。
そういえば、「笑わせる」と「笑われる」の違いが、わたしにはよく解らない。
そして、ありのままを白状すれば、上掲の記事で引かれている「作品の出来」というものも、わたしにはよく解らない。
実話(おすぎ)です
そもそも「作品の出来」というものは、権威によって定められた度量衡の制度と、それに従う人民の集合から切り離しては語りにくいものである。歴史的には確立したこともあるらしきそのシステムに、今やアクセスする術をもたず、したがって「作品の出来」など云々することもできない一人の現代人がわたしである。
だからわたしは、発掘された個々の物差しや、伝世された器の断片を手当たりしだいに作品へ押し当て、それでどうにかそれらしきことを、そしてどこか嘘くさいことを語るのが精一杯だ。
「誤字」や言葉の「誤用」を指摘した時の方が、基準の息が長いぶん、まだしも「「作品の出来」について語ることができた」という気分になる。
いずれにせよ、それらの行為が、過去世の価値観を存えること、あるいは未来世へ新たなシステムを遺すことに貢献しうると信じなければ、とうていやってはいられない。
かくのごとき不純な権威主義者であるわたしだが、実際の生活の中では、もうすこし明確な基準で行動を選んでいる。
例えば小説については筒井康隆だ。
9歳から12歳にかけては、筒井康隆が肯定的に言及した作者の作品、つまり筒井康隆数1の作品しか読まなかった。それ以外のものを読んでは、眼が汚れかねないと思っていた。これは祖国流の教育によるものだ。カブキのカンパニーや、反物を商うアキンドのギルドにも、同様の教育法があると聞いている。人の群れが生きていくための教育だ。
今ではわたしも、筒井康隆数3までを良しとしたり、xx-internet数や幸田露伴数を新たに導入したりと、独自の拡張を試みてはいるが、基本的には祖国の道から外れることなく歩いている。
だからわたしには、ある意味では、「作品の出来」は触れた瞬間に判る。100点満点の精度でよければ、数値化も可能だ。しかしその数値は、祖国の中でしか流通しない。
明日泣く 夢を見るのだ
語らなくとも心臓は動くし、いくら語ろうとも止まる日は止まる。
わたしの息のあるうちに、涙を基準とした作品の評価が、当代の新たな基準として育ちきってくれることを、わたしは望んでいる。社会的・技術的条件は、すでに整っているはずだ。
「全米が泣いた」と言うのであれば、全米が総力あげて東京ドーム何杯分泣けたのかを明らかにすべきであるし、柴咲コウが何リットル泣いたのかも知りたいところだ。「作品の出来」を鞭打的な観点から語ってはならない理由はないが、今はまだ基礎的な作業が欠けているように思われる。
生理的反応を「作品」の評価から切り離す、あるいは最強の基準とする、という裁断が、人によって極端に分かれているのが現代の日本人の特徴だ。そこに見えるのは、「言語化」「生理」「意識」「無意識」に対する態度の両極であり、ある職種の人にとっては、その態度の極端化は職業病の域だろう。
数百万部売れた『バカの壁』という本の製作に関わった養老孟司は、ある人間の行動に影響を与えるものがその人間にとっての「現実」であると説いたが、数百万回も財布が開くというのはすごいことだ。
本を売るというのは、当然のことながら著作者だけがする仕事ではない。編集作業やハードのデザインはもちろん、出版前後の宣伝も重要である。「宣伝」とは情報操作、と言って語弊があるなら、インテリジェンスを駆使した行間操作であり、現存するシステムに対する貪欲な理解が求められる。そして宣伝を含めた諸要素によって成立する「出版」とは、紙の束を法外な値段で売るという高度な魔術、あるいは築城、ひいては合戦である。
だから、一参謀の立場にすぎない著作者は、ベストセラーを己一人の手柄に帰したり、売れなかった著書を卑下したりするべきではない。
そしてわたしは、商業を戦争の比喩で語るしかない語彙の貧困を、深くわびつつ筆をおく。激わび、そして消えさび。