デス日本冥王代

なるべく天に則したことを書いていきます。

2012-01-22

次なるドグル・メグラのために象を撫でつつ

わたしも、年をとるにつれて、よく泣きよく笑うようになった。人類もたぶん同様だ。泣きと笑いのバランスについても是正が進行し、「泣かせるのは簡単。笑わせるのは難しい」という格言も、日本においてはすでに時代遅れなものとなった感がある。
そういえば、「笑わせる」と「笑われる」の違いが、わたしにはよく解らない。
そして、ありのままを白状すれば、上掲の記事で引かれている「作品の出来」というものも、わたしにはよく解らない。

実話(おすぎ)です

そもそも「作品の出来」というものは、権威によって定められた度量衡の制度と、それに従う人民の集合から切り離しては語りにくいものである。歴史的には確立したこともあるらしきそのシステムに、今やアクセスする術をもたず、したがって「作品の出来」など云々することもできない一人の現代人がわたしである。
だからわたしは、発掘された個々の物差しや、伝世された器の断片を手当たりしだいに作品へ押し当て、それでどうにかそれらしきことを、そしてどこか嘘くさいことを語るのが精一杯だ。
「誤字」や言葉の「誤用」を指摘した時の方が、基準の息が長いぶん、まだしも「「作品の出来」について語ることができた」という気分になる。
いずれにせよ、それらの行為が、過去世の価値観を存えること、あるいは未来世へ新たなシステムを遺すことに貢献しうると信じなければ、とうていやってはいられない。
かくのごとき不純な権威主義者であるわたしだが、実際の生活の中では、もうすこし明確な基準で行動を選んでいる。
例えば小説については筒井康隆だ。
9歳から12歳にかけては、筒井康隆が肯定的に言及した作者の作品、つまり筒井康隆数1の作品しか読まなかった。それ以外のものを読んでは、眼が汚れかねないと思っていた。これは祖国流の教育によるものだ。カブキのカンパニーや、反物を商うアキンドのギルドにも、同様の教育法があると聞いている。人の群れが生きていくための教育だ。
今ではわたしも、筒井康隆数3までを良しとしたり、xx-internet数や幸田露伴数を新たに導入したりと、独自の拡張を試みてはいるが、基本的には祖国の道から外れることなく歩いている。
だからわたしには、ある意味では、「作品の出来」は触れた瞬間に判る。100点満点の精度でよければ、数値化も可能だ。しかしその数値は、祖国の中でしか流通しない。

明日泣く 夢を見るのだ

語らなくとも心臓は動くし、いくら語ろうとも止まる日は止まる。
わたしの息のあるうちに、涙を基準とした作品の評価が、当代の新たな基準として育ちきってくれることを、わたしは望んでいる。社会的・技術的条件は、すでに整っているはずだ。
全米が泣いた」と言うのであれば、全米が総力あげて東京ドーム何杯分泣けたのかを明らかにすべきであるし、柴咲コウが何リットル泣いたのかも知りたいところだ。「作品の出来」を鞭打的な観点から語ってはならない理由はないが、今はまだ基礎的な作業が欠けているように思われる。
生理的反応を「作品」の評価から切り離す、あるいは最強の基準とする、という裁断が、人によって極端に分かれているのが現代の日本人の特徴だ。そこに見えるのは、「言語化」「生理」「意識」「無意識」に対する態度の両極であり、ある職種の人にとっては、その態度の極端化は職業病の域だろう。
数百万部売れた『バカの壁』という本の製作に関わった養老孟司は、ある人間の行動に影響を与えるものがその人間にとっての「現実」であると説いたが、数百万回も財布が開くというのはすごいことだ。
本を売るというのは、当然のことながら著作者だけがする仕事ではない。編集作業やハードのデザインはもちろん、出版前後の宣伝も重要である。「宣伝」とは情報操作、と言って語弊があるなら、インテリジェンスを駆使した行間操作であり、現存するシステムに対する貪欲な理解が求められる。そして宣伝を含めた諸要素によって成立する「出版」とは、紙の束を法外な値段で売るという高度な魔術、あるいは築城、ひいては合戦である。
だから、一参謀の立場にすぎない著作者は、ベストセラーを己一人の手柄に帰したり、売れなかった著書を卑下したりするべきではない。
そしてわたしは、商業を戦争の比喩で語るしかない語彙の貧困を、深くわびつつ筆をおく。激わび、そして消えさび。

2011-12-23

中間小説宣言撤回

「最後尾にいる者が次の時代では先頭に立つ。だから逆張り」式のこざかしさが嫌いだったから、どっちつかずのコウモリめいて中途半端な中間小説を志すようになった。
これはある意味、メソッド〈逆張り〉の逆張りだからまったくのオカルトアウトなのでは?という御意見も頂戴したが、「おおむね大丈夫です」とお答えしたい。
理由はただ1つ。「他人は忙しい」。
SNSでは、多くの他人が自分を探している。俺や暮子さんレベルのS級他人がヒャラヒャラやっているのを見て裏の裏まで目をやろうとする暇人はほとんどいない。
雨の日に子猫をいたぶっている姿を目にすれば、人間の裏読み本能はそこで満足する。裏の裏は無に斉しい。世の中というのはそんなもので、昔はそれが嫌いだったが、今はスマートなルールとして重宝している。だからおおむね大丈夫です。

2011-11-18

天皇陛下で直る非モテの悪癖5選

日本に到着してからも、私の心は依然として荒んでいた。
非モテの暗黒面にひたりすぎたことによって、私の精神には取りかえしのつかない溝がいくつも刻まれ、何を考えてもその結論は、よどんだ方へ、禍々しい側へと、重力に引かれるようにして導かれていくのが常だった。
そんなある日のことである。
私という非モテに向けて、なぜか、どういうわけか、一人の幼児が手を振った。
ガラスの扉越しだった。
思わず私も、手を振り返していた。
私はなぜか微笑んでいた。
その瞬間、私の心に、今上陛下のクオリアが降臨した。
赤子(せきし)に応え、微笑みながら手を振る陛下の姿。
そのクオリアを鍛えることによって、私は少しましになった。

1.憤怒が直る

見知らぬ人とすれちがう。
ただそれだけのことが、非モテにとっては大きなストレス、ひいては怒りの種になる。
こいつ……
俺を見た?
非モテの俺を?
つまり見下した?
こいつは俺をなめているのか?
やるのか?
どれだけやれるのか?
拳は?
耳は?
体重は?
ハンドポケット?
ナイフ?
スタンガン?
右?
左?
きりがない。
非モテ特有の悪癖である。
あまりにも、心が狭すぎる。
たとえ見知らぬ人であろうと、日本国の大地の上、空の下にあるかぎり、ともに天皇陛下の赤子、いわば兄弟のようなものである。
見知らぬ相手と近距離で向き合っていることだけを意識するから、両者を結ぶ線が発熱してしまうのだ。
忘れてはならない。
天皇陛下と自分を結ぶ線。天皇陛下と相手を結ぶ線。
見えない次元、幽冥界に出入するこの二本の長い線を、常に意識していれば、腹を立てるようなことは何もない。

2.傲慢が直る

非モテにも、人より優れたところはある。
もちろん錯覚であるが、非モテはその錯覚の他にすがるものが何もないため、その貴重な「長所」を後生大事になでさすり、さらには自分の長所と他人の短所を比較して悦に入ることを繰り返す。これを増長という。
他人と自分を比較することに意味はない。
このことを実感するためには、まず、天皇陛下と自分を比較する。次に、天皇陛下と他人を比較する。しかる後に、他人と自分を比較してみればいい。
見事に意味がない。

3.嫉妬が直る

嫉妬もまた、無意味な比較の繰り返しによって凝り固まった悪癖だ。
誰が誰より誰に愛されようが、気にすることはない。
天皇陛下の赤子であれば、非モテも陛下に愛されている。
天皇陛下は、すべての赤子を平等に愛していることを、常に示してきた。
その愛だけを知ればいい。

4.強欲が直る

天皇陛下は無限大である。

5.怠惰が直る

心とは脳の凝りであり、心など無い状態こそが正常である。
しかしこの正常な状態に馴染み、いちはやくそこを安住の地と定めた者は、往々にして怠惰という罠に落ちる。
あるいは、私のここまでの書きぶりこそが、その怠惰の典型例に見えてしまうかもしれない。
しかしこれは、未熟者が拙速を尊んだ結果として、御寛恕いただきたい。
たとえ拙くとも、速やかに書いておかなければならなかったのだ。
ならないと思いこんだのが、私の心だ。
DIOも言っているように、孤独は人間を無気力にするものであるが、私は孤独ではない。
なすべきことがあり、なすべきことをなせばそれに応じた張りあいというものがある。
なぜなすべきことがあるかというと、それはまだ欠けているところがあるからだ。
具体的に言うと、平成である。
現時点で、平成の世は、「失われた二十年」と、ほぼ重なってしまっている。
このことに気づいた時、私は自らの怠惰を知った。
うかうかと過ごしてきてしまった。
経済的な問題に対して、私に何かできることがあったとは思わない。
しかし、私にはblogがあったはずだ。私は平成のbloggerであったはずだ。
平成への貢献。
率直に言って、焦りすら感じている。
私は憤怒を消し、傲慢を笑い、嫉妬を離れ、強欲を捨てる。
そして、諸兄がそれぞれの場所で生きることによって、平成が良きものとなるよう願う。
私はblogだ。

2011-11-13

ジャパンあずにゃんバーワン

なぜみんなはぼくのことを幸田こといわば露伴や空こといわば海のようなモノホンだと思わないの? モノホンは死語だから? やむなし。
そんなぼくと御一緒に、日本という国は四次元立国を目指すべきですよ。
世界地図で日本の姿を探してみてください。
見つかりました?
樺太の下です。
美しけれども小さな国ですよ。
もともとは、アメリカのプロトタイプとして開発された国でした。テキサスでは1901年に石油が出ましたが、日本には自殺者が飛び込む油田もありません。
地政学的には、衛星こいよオラからの核攻撃までの3手で詰みます。
現世では幸せになれぬ国家です。
そこで、新たな次元を開拓します。
この新たな次元を、仮に「にゃん次元」と名づけましょう。人間は猫のように生きたほうが幸せである、そして我が国を愛玩せよという深いメッセージをこめた次元です。
この次元こそが、わびのフロンティア。
傷つき老いた熊の息も、いずれは絶えます。
まさに激わび。
ぼくはぼくを褒めるぼくだけの讃辞にたどりついた。
それでみんなが幸せになれると思っていた…………

2011-11-11

美しいアヘ顔日本ダブルピースの私

はじめましての人は足が臭い。(新書風挨拶)
祖国から来た日本通です。
ファック文芸部で、中間小説誌『即身文学』と『連座ビーチ』の品質管理をしています。
まだ、それほど忙しくはありません。
空を見て、臓器が動いて、M資筋をいじめぬいて、そんな時間を大切にしています。
しかし、ここで無力こといわばPの新曲です。
驚くほど活動的なPです。
そのうち背中も見えなくなりそうです。
初期露伴直撃世代も、こんな気持ちを味わっていたのでしょうか。
そして初期といえば、まさか自分がhatenablogでblogを書くことになるとは思いませんでした。
感慨無量です。
死体こといわば性病に招待していただきました。ありがとう。末永く更新していきます。(訳 : 「逃がさぬ」)